8-1.内川新田(うちかわしんでん)の開発
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(3)新田づくり
 砂村新左衛門は、まず、吉井(よしい)の山ぎわに小さな家を建て、そこを工事じむ所としました。江戸(えど)からうでのたつ職人(しょくにん)を何人もよび集め、近くの村からは多くの人びとがやって来ました。
 工事は、まず、海岸にそって、約872mにわたるていぼうをつくり、波が入江にはいらないようにしました。つぎに、大川など、3つの川の両側に土手(どて)をつくって、いくつにもみだれて流れていた川をそれぞれ1本にまとめました。そしてまわりの土地には水路をつくり、近くの山から運んできた土で、水田をつくっていきました。今のようにすすんだ機械(きかい)などなかった時代なので、すべて人や馬、牛の力で工事はすすめられました。
 また、今の夫婦橋(めおとばし)がある所には、長さ約126m、高さ約1.8mのていぼうをつくり、そのあいだに、長さ約10.8mの水門を2ヵ所つくりました。
 水門は、潮(しお)のみちひきによって、自然に掛戸(かけど)が開閉(かいへい)するしくみになっていましたが、台風や津波(つなみ)などで、大水が出たと時は、すぐにこわれてしまったり、ひどい時には、ていぼうごと流されてしまったりしたようです。この水門づくりには、いろいろな伝説が残っていることからも、いかに大変だったのかを知ることができます。
 また、せっかくつくった水田や川の土手(どて)なども、何度か流されてしまったことがありました。しかし、新左衛門(しんざえもん)や村の人びとは、こうしたひ害にも負けず、朝早くから夜おそくまで、工事をすすめていったのです。
 こうして、1667(寛文(かんぶん)7)年、8年という年月をかけて、やっとの思いで、新田をひらくことができたのです。内川新田からは、542石(こく)の量の米がとれるようになりました。工事をおえた村の人びとが、この新しい水田で、いっしょうけんめいに米をつくったのです。


砂村新左衛門について
 江戸(えど)時代に書かれた本によると、この人は、大阪(おおさか)方面の人で、若いころから各地をまわり、土木工事や農業などの勉強をしていたそうです。久里浜(くりはま)の正業寺(しょうごうじ)にお墓(はか)があります。

福井(ふくい)県の人だという説もあります。

↑正方形の台にみぞがあって、水がたたえてあります。

内川新田のバス停
 今は、家や工場などができて、そのおもかげを見ることはできませんが、「内川新田」と いう地名は、一部に残っています。
「夫婦橋の人柱(ひとばしら)」の伝説
  内川新田をつくるためにかけた橋も、川が大水になるたびに流されてしまいました。こんな事が何回もつづくと、村の人々の中には、「これは、神様がおいかりであるにちがいない。神のいかりをしずめるためには、人柱(ひとばしら)をたてなければ・・・。」という話が出はじめました。
 その話はだんだんと広まり、村でも、とくにまずしい家の、美しい娘(むすめ)に、その矢(や)がむけられたのです。「気の毒(どく)ではあるが、まずしい家のことだから、お金で何とかなるだろう……。と、村長たちが娘(むすめ)の家に出かけ、「神のためじゃ。村のためじゃ、ぜひ……。」と両親にお金を出してたのみました。
 両親はもちろん、娘(むすめ)もこの話を聞いて、たいそう悲しみましたが、まずしい家のこと、「神のため、村のためなら……。」と、しょうちしました。
「人柱(ひとばしら)に娘(むすめ)がたてば、きっと神様はいかりをしずめ、願いを聞いてくれるにちがいない。」と、よろこんだ村人たちは、さっそく用意をはじめました。
 まず、大きな箱(はこ)をつくり、その中に娘(むすめ)を入れると、箱(はこ)の中に食べ物と鈴(すず)を入れ、ふたをしめて橋げたの下に、その箱(はこ)をうめました。
 それからというもの、村人たちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴(すず)の音(ね)が聞こえてきます。しかし、三日たち、四日たちしていくと、とぎれとぎれで、しだいに小さな音になり、しまいには、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまいました。
 村人たちは、鈴(すず)の音(ね)とともに、娘(むすめ)が天にむかえられたと涙(なみだ)ぐみました。
 それからと言うもの、橋の工事もどんどんすすみ、夫婦橋(めおとばし)は、どんなに大雨がふりつづいても、流されることはなくなったと言う事です。

(田辺悟著「三浦半島の伝説」より)